名古屋・八事のベトナム料理店「トゥ・アン」が提供するオフィス宅配弁当「ベト弁」は野菜いっぱいヘルシー。丼ご飯と生春巻きの入ったおかずで1セット500円 ご注文は052-836-6701まで。

トウアン物語

~トウアン物語~
 
八事でベトナム料理トウアンをオープンして間もなく丸13年になります。開店した当初は色々な人との会話で「ほう~ベトナム料理ですか?またなんでベトナムなんですか?」とよく聞かれました。今でこそ「生春巻き」などはスーパーでも売ってますが、当時は「ベトナム」と聞いて連想するのは、映画の「プラトーン」「地獄の黙示録」であったり、ぼろい木造船で海を渡ってくる難民だったり・・・いずれにしても「ベトナム=貧しい国」だったのです。「飲食店を開くのは解るけど、なんでベトナムなの?」「ベトナムの料理ってどんなんなの?」って不思議がられたのです。
そこで、「何故ベトナム料理屋を始めたのか」を今週から連載していきます。名付けて「トウアン物語」・・・(おい!おい!そのままやんか)
 
トウアン物語 ①
今から15~6年前の事です。当時は水産会社に務めるサラリーマンで独身だった私は、どこか海外でも行こうかなと思い立ち、ある人に相談したら、「ベトナムがいいぞ。まだ誰も行っとれへんで」と言うわけです。ベトナムかあー。ベトナムって言えば戦争だなあ。それと何年か前に難民がたくさん来とったなあ。あと映画の地獄の黙示祿とかプラトーンだよなあー.ガイド本だってそのころは「地球の歩き方」だけしか無かったんです.しかし、飛行機代を調べたら以外にも安い。確か名古屋発着で9万円ぐらいだったはずです.そんなこんなで、寝袋持ってって野宿するぐらいの気持ちでベトナム行きを決めたのです.
初めての1人での海外旅行。期待と心配で胸がパンパンでした。
 
トウアン物語 ②  初めての1人での海外旅行。それがベトナム。
飛行機は台北を経由していよいよベトナム上空にやってきました。
緑の大地の中を蛇のようで、しかも泥の色をした河。機上から見えてくる風景はやっぱり映画の「プラトーン」そのままでした。思わず「おー来たなあベトナム!!ハローベトナム!!」。そしてホーチミンのタンソンニャット国際空港に着陸しました。飛行機口から出た瞬間『ボワアーン』とむちゃくちゃ暑い。名古屋の蒸し暑さと変わらなかったけど、タラップで降りてきたので私的には大満足でした。しかしその国を代表する国際空港なのに建物や車両が「おんぼろ」。何の飾り気のない建物に4~5人の能面のような顔した入国審査官が座っているだけ。壁の色もねずみ色で、「あーやっぱりここは共産主義国なんだ」と寒々しくなりました。入国審査も終わり荷物を持って外へ出ようとすると・。つづく
 
トウアン物語 ③  初めての1人での海外旅行。それがベトナム。
空港建物ゲートから出ると、人・人・人 の人だかりです。出口から幅2メートルぐらいの通路があって、その両側は鉄柵があるんですが、その柵の両側に数え切れないぐらいの人がいるんです.胸にプラカードを持った人もいるのですが、年寄や子供がいっぱいで、明らかに親戚一族が全員集合しているようなんです.今の今まで、世界中で一番無表情と思う入国審査官と、暗くて寒々しい共産主義を感じて出てきたのに、この豹変振りにはびっくりしました。そして次はタクシー選びです.これも客の奪い合いが凄まじい!タクシーに乗り込み、中学生レベルの英語で行き先を言っても理解してもらえるはずも無く、本でホテルの住所を見せてやっとタクシーは出発するのでした。つづく
 
トウアン物語 ④  初めての1人での海外旅行。それがベトナム。
ホテルまでの道のりで、まずはバイクの多さ、両サイドにある店の派手さ、屋台らしき処に群がっている人間にはびっくりしました。タクシーの後部席で右を左をきょろきょろ見るわけですけど、もう無性に興奮してきました。驚きと、物珍しさと、「すっごいところに来たなあー」という思いで、本当に興奮してきました.バックパッカーの集まる安宿街のホテルにチェックイン。もう私は興奮状態ですから一刻たりともじっとしていたくない。直ぐに街へ出発です。その安宿街を歩いているだけでこれまたすごい。シクロの運転手が、ドウーユウーワンツゴー! ユウーマッサー。無茶苦茶な英語で話し掛けてくるんです.文法はでたらめだけど何故か意味は通じてしまうところがすごいのですが。つづく
 
《トウアン物語 番外編①》初めての1人での海外旅行。それがベトナム
これはかなり後で知ったのですが。何故空港の出迎えに一族郎党が来ているのか?1975年の戦争終結以来、かなりの数のベトナム人が、さまざまな国へ難民として渡ってます.家族の中でも一番上の兄さんはアメリカで、二番目はカナダ、三番目もアメリカ、というような家族が一杯いるんです.そして、それぞれの人がそれぞれの国で一旗あげたのか上げてないのかは知りませんが、帰ってくるのを出迎えているのだそうです.その目的は?  彼らが持ちかえるお金を待ってる。これが現実だそうです。だから遠い親戚とか、あまり深い関係ではない人も、俺も俺も、と集まるのだそうです。日本在住のベトナム人が、「帰りたいけど、恐い」と言ってました.
 
《トウアン物語 ⑤》初めての1人での海外旅行。それがベトナム
そんなこんなで、街をうろつく私にとっては何を見ても興味深い。おばさんが天秤棒を担いで何かを売っているのだけど、何を売っているのかさっぱり解らない。どうも食べ物のようだけど、でもなんなんだろう? 真っ黒に日焼けして、前歯が2本くらい抜けてて、無精ひげを生やしたおじさんが、道端のプラスチック製の低いテーブルで昼間から酒を飲みながら将棋のようなものを指している。15分くらい観察していても日本の将棋に似たルールのようだけどちょっと違う。また、ホテルの前でたむろしているベトナム人においしい物が食べたいと言って連れていってもらったレストランは、ホントどえりゃあー美味しかった。のですが、そこの勘定も2倍になっていて、半分はそのベトナム人の懐へ。
 
《トウアン物語 ⑥》初めての1人での海外旅行。それがベトナム

くちゃくちゃ英語のシクロの運転手、うんこ座りする天秤棒のおばさん、ばっちりボッタくるプータロー。油断も隙もないのですが、でもそんなところに、生きる事へのカッコつけないエネルギー、活気を感じたんです。「こすくて、ズルイんだけどなんか憎めんなあ。」っていう感じ.人間から感じるぎらぎらしたエネルギー。まずこれがベトナムに魅力を感じた第1番目です.  
(付録)バオニュウー?  物を買いに行っても正札が付いてないんです.だから毎回、これいくら?と聞く訳です.そして答えるほうも人を見て値段を言います.そこから値段交渉が始まっていきます.バオニュウーとはまさしく“いくら?”なんですね.物を買うときばかりじゃないです.ベトナム人といると、腕時計を指差してバオニュウー?めがねを指差してバオニュウー? ホテルの値段はバオニュウー?とにかく聞きまくります。ああやって物の価値観を養っていくのでしょうかねえ…。

 
《トウアン物語 ⑦》初めての1人での海外旅行。それがベトナム

第2番目にベトナムで魅力を感じたのは、食べ物でした.もともと食べたり飲んだりする事が大好きだったので、旅行となれば食べる事が大きな楽しみなわけです。まず朝ご飯はうどんのようなラーメンのような“フオー”というものを食べます.ベトナムの一般家庭ではまだ冷蔵庫が普及してない事と、ベトナム人は朝早くから仕事したり学校へ行ったりするので、朝ご飯は家ではもともと作らない物とされていたようです.そこで、このうどんのようなラーメンのような物を食べるのですが…。「朝からちょっとラーメンはないよなあ」という感じだったのですが、食べてみると意外にも食べやすかったです.甘くて、酸っぱくて、香草類をたくさん入れて。次にコーヒー。これはコーヒー牛乳を濃ーーーくした感じで甘ったるいんだけどうまい。今まで数えきれないくらい行ってますが、今度行ったらまたあれを食べようと思うものがホントたくさんあります.

 

《トウアン物語 ⑧》初めての1人での海外旅行。それがベトナム。

3番目に魅力を感じたのは、女の子の綺麗な事でした。東南アジアだけど色は黒くなく、背は小さめですが、化粧してる人はあまりいなくてすっぴんだけど綺麗。特にホテルのレセプションや、空港職員が着ている民族衣装(アオザイ)がまたいいんですねえ。颯爽としててかっこいい。それと太った娘はあんまりいない.(おばさんは太っている人多い)何でも小さい頃から、親にアオザイを着たときの為にダイエットするように躾られてるらしいです。カメラを向けたときなどに恥ずかしくて無表情になるんじゃなくて、恥ずかしさをそのまま表現していい笑顔になるんですね。それがまた可愛いし、ほのぼのするわけです.そんなこんなで、ベトナムの人々から活気を感じた事。食べ物がむっちゃ美味しかった事.女の子が綺麗だった事。こんな事を感じて1回目のベトナム旅行から帰って来たのでした.帰った途端2回目の計画をしだしたのは言うまでもありません。

 

《トウアン物語 ⑨》初めての1人での海外旅行。それがベトナム。

そんなわけで、半年後の96年の正月に2回目のベトナムへ旅立ちました.今回は現地水産会社を訪問して商談する予定です。相変わらず食い物はうまい。女の子は綺麗。よしよし・・・。現地はまだ諸外国からの投資ブームの真っ最中で、高層ビルの建設ラッシュでした.建築中の建物のゼネコンを見ると、ちゃんと日本の大手ゼネコンなんですね.やっぱ日本の企業はたいしたもんだなあと思いました.まず1件目の会社に行きました。だけど、ぜんぜん駄目。何が駄目って、私の中学生レベルの英語力では話にも何もなったものではありませんでした.しかしこの会社には日本語の出来る方がみえたので、いいかげんな英語と日本語のちゃんぽんで話をしました.2件目、3件目はお手上げです。もうお互いに苦笑いするばかりです.英語を勉強しないかんなあ、と痛感しました。日本へ帰ってきて、どっちみち覚えるなら英語よりベトナム語にしようと、名古屋に1件だけあった教室に入学しました。でもここから本格的にベトナムにはまっていく事になるとは・・・・                              次回より留学編です。

 

《トウアン物語 ⑩》留学編

レンタルルームを借りようと思っていたんですが、とりあえずは安宿街のホテルに宿を取りました.この部屋は朝がいいんです。朝5時ごろからホテルの前の道をバイクなんかがすごい騒音とクラクション。バイクなんだけど前の部分がリヤカーになっていて、氷を運んだりしてる。市場で売るための鶏をバイクの荷台に山盛りに逆さ吊りしてる。その鶏は足を縛られてるから身動き取れないんだけど、目だけがキョロキョロしてるんです。また、天秤棒に食べ物らしきものを入れたおばさんが山笠みたいな帽子(ノンと言います)をかぶって歩いてる。こんなんがまだ薄暗い朝から始まっている、この騒々しさがいいんですねえ。ベトナムなんです。着いた翌日、早速ベトナム語の学校を探しに行きました.以前来た時に友達になったシクロ(前にお客が座る人力自転車)の運転手に会って相談したところ日本語学校を紹介してくれました.東遊(ドンズー)日本語学校。1日1時間30分。1時間当り3ドル。先生は女の先生で若くて可愛い。オッケー。この学校へ通う事に決めました.

 
《トウ アン物語 ⑪》留学編

そんなこんなでサイゴンでの学校通いが始まりました.毎朝7時半から9時まで。でも学校が終わると途端にやる事が無くなってしまうんです。今まで毎日時間に追われるような生活だったのでぽっかり空いてしまうと困ってしまうのです.でも大体学校が終わった後はシクロのあんちゃんとカフェに行きました.そのカフェは完全な地元密着型の店で、お客の中で少し英語のしゃべれる人が色々聞いてくるんです。どこの国へ行った事があるか?とか。給料はいくらだ?とか。ベトナムで嫁さんを探せ、とか。おまえは空手強いか?とか。それで私が返答をいちいちみんなに通訳するとみんなが笑う。私も受けがいいとうれしくなってきてついつい受けそうなことを答えてしまう.そんな感じでした.ある時なんかトイレに行ったら紙が無い。ペーパー、ぺーパーと言っても発音が悪いのか通じない。もちろんベトナム語では喋れない。困った挙句に、全てをゼスチャーでやったらみんなは大爆笑。そんなふうに午前の時間は過ぎていったのでした。

 
《トウ アン物語 ⑫》留学編

友達のシクロの運転手とは毎日四六時中、一緒にいました.まず朝7時に迎えに来てもらって学校へ送ってもらい、終わったら迎えに来てもらい一緒にカフェへ行き、一緒に飯を食い、昼寝してました.彼とは歳も一つ違いであったため妙に馬が合ったのです.彼の名前はフン(HUNG)といいます.フンさんの家は昔は裕福だったそうですが、サイゴン陥落後没収されたそうで(本人曰く)今はスラム街に住んでいます.サイゴンの高級ホテル街から川を隔てたほんの直ぐ近くです。その家にも何回か行きました.ぐにゃぐにゃ細い道というか軒下の道を歩いたところにあって、大きさは家全体が8畳の間ぐらいの大きさです.そこに台所があり、風呂があり、トイレがあり、居間があるんです.飲み水は売り歩く人から買っているようです.そこに夫婦とお母さんと子供の4人が住んでます.すごいでしょ?。そう、すごいんです。そこでご飯を食べて、「一度沸騰させたから」と言われて水も飲んでしまって、昼寝した私も結構すごいですが…。

 
《トウアン物語 ⑬》留学編

食事は当然全て外食なんですが、朝はだいたいフオーという名のラーメンとうどんの中間のような物を食べてました.このフオーには大きく分けて2種類あります。牛肉と鶏肉です.どちらも麺は米の粉から出来ていて、きしめんを少し細くしたような形です.このフオー屋さんでも流行ってるところはムチャムチャはやっていて、いつ行っても満員です.昼食は、日本と同じですね、茶碗ご飯におかず。日本で言うところの大衆食堂って感じです.晩御飯にはいつもエネルギー使ってました.水産物のバーベキュー屋さんとか、鍋屋さんとか、ベトナム風のお好み焼き屋さんとか。海老なんかでもブラックタイガーが生きてるんですから美味しいはずですよね.ちなみに朝、昼、晩と3食で、普通の物食べて(特別豪華じゃなく)日本円でだいたい1000円もあれば充分です.安い!ですよね

 
《トウ アン物語 ⑭》留学編

汽車にも乗りました.サイゴンからハノイまで、約1500キロぐらいの鉄道があるんですが、私は中部ベトナムのリゾート地まで行ったのです.この汽車がまた凄い。まず、ベトナム人と外国人の料金が違う。外国人はおよそ倍の料金です.(これは飛行機も同じですが)座席も5パターンぐらいに別れてるんです。最安と最高の値段は10倍ぐらいの差があります.そして各駅に着くたびに、ものすごい数の物売りの人。ジュースあり、お菓子あり、果物あり、ちまき(粽)ありです。まるで歩いてくるコンビニですね。そんな汽車が時速40キロぐらいで走るのです。 場面は変わって、サイゴンでのこと。「公安」お巡りさんの事についてですが。バイクを自分で運転してて進入禁止を入ってしまったときがあったんです。そこにおまわりさんがいて止められました.免許は必要無いからいいんですけど、何故か切符を切るようなことを言うんです。(私もベトナム語は全く駄目って事にしたので、相手のゼスチャーでそう思ったのです)以前切符を切られたら警察署まで行って、罰金を払うと聞いてたので、ちぇっ!メンドクサイなと思っていたら、そばにいた少し英語の喋れるおせっかい野郎が来て、ユーペイ50ダラーOK!それは高すぎると交渉したら結局20ドルでオーケーでした。あからさまに賄賂を要求して、外国人と見るや吹っかけてきて、これじゃあ商売人じゃんか。むかつきながらも20ドル払いました

 
《トウアン物語 ⑮》留学編

ある日いつものようにフンさん(シクロ運転手)と家の近所の屋台で晩御飯を食べてました。屋台と言っても店はちゃんとした店なんですが、歩道にテーブルが出してあって、いい言い方をすればオープンテラスの店です。そこへ年のころ10 歳ぐらい、半ズボンに上半身裸の男の子が片手にビニール袋を持ってやって来ました。その子は我々の隣のテーブルに行くとそこのお客さんから食べ残しの料理をビニール袋に入れてもらってました。ホントに残飯でした。するとその子は、5 メートルと離れていない石の上にちょこんと座って、ビニール袋に手を突っ込んでいきなり食べ出したのです。ありゃりゃ。凄いショックでした。なんか胸が一杯になって泣けてきました。たまたまこの子はベトナムで生まれてきた。たまたま私は日本で生まれてきた。この違いだけでこの子はその日に食べる物さえない。たぶん学校へも行きたいだろうが行けない。雨風しのげる家に住んでいるのかさえ解らない。その場では「衝撃を受けた」、で終わったのですが、後々にもこのことが私の頭から離れなくなりました。

 
《トウアン物語 ⑯》留学編

ベトナムの女性はホント良く働きます。街の中を歩いてて目に付くのはだいたい女性が働いているところです。天秤棒で野菜などを売ってるのは女性、フォーを食べに行って作っているのは女性(その子供も手伝ってますがこれも娘)、市場に行ったら売り子をしてるのは女性、カフェでも女性。男の人も働いているんでしょうが、目に付くのは女性ばかりなんです。男の人で目に付くのは、昼間から路上の店でビール飲んでたり、カフェで昼寝してたり、という姿なんですね.市場に行くとこのような女性陣が凄いんです。外国人を見る好奇な目と、商売魂の塊とでも言うような熱気に圧倒されます。最初の頃はベトナム語が宇宙語のようにしか聞こえませんでしたから、時に怒鳴るように、時に大笑いしてる彼女らがなんとなく「恐いなー」と思ってました。でもベトナムには男尊女卑とまでは行かないまでも、近いものがあって、年長の人、長男、目上の人をものすごく立てます。これは言葉にはしづらいのですが、なんか懐かしい物を感じて、「ええなあー」と思いました.

 
《トウアン物語 ⑰》留学編

ベトナムでの生活も1ヶ月半ぐらい過ぎて、毎日の生活パターンがすっかり現地風になってきてました。そんなときに以前の会社の社長から「そろそろ戻ってこんか」と電話があり、留学生活も満足したし、お金も無くなってきたしで帰る事にしました。振り返って見ればこの約2ヶ月間に一度も帰りたいと思った事はありませんでした。食べることに不自由しなかった事も大きな理由ですが、それ以上に『ベトナム人』が良かったんではないかと思います。いつも行くカフェの前で、てんぷらのような物を作って売っているおばさんや、部屋の大家さんや、何と言っても四六時中一緒にいたフンさんたちなど・・・。活気があるし、食べる物も美味しいし、女の子も綺麗だけど、このような人たちを通して『ベトナムは面白い』と感じていたのかもしれません。この2 ヶ月間での最大の収穫は、サイ
ゴン市内なら自分1 人でバイクに乗って大体のところへは行けるようになった事です。これはちょっとした自慢でした。 次回から脱サラ編が始まります。

 
《トウアン物語 ⑲》独立苦闘編

日本に戻り再び前の職場で働きだしました。水産物の卸問屋です。でも毎日悶々としていました。「何のためにベトナムへ行っていたんだろう」「ただ遊びに行ってきただけなのか」とか、「もっと毎日ベトナムにかかわる事が出来たらいいのに」とか考えていました。その頃の私は、あれもやりたい、本当はこうしたい、というものは色々あったんですが、でも無理だろうなあ、とやる前からあきらめる事が常でした。自分の可能性を信じないというか、戦う前から負けてる状態だったんです。そんな時にあるセミナーに参加しました。その中の約束事で「毎日職場のトイレを掃除する」というものがありました。でも最初の頃は大便器の中は柄のついたたわしでゴシゴシやってたんです。この便器の中に素手を突っ込んで掃除するのは自分にはちょっと出来ないなと思ってたんですが、ある日思いきって手を突っ込んでやってみました。自分で「よし!やってやろう」と決めたものの、やっぱ汚いと思ってますから「うっーーー」と声をあげながらやったんです。 つづく

 
《トウアン物語 ⑳》独立苦闘編

一気にやりました。やり終わってみると、手も臭くないし、どうって事無いなあと思ってたんですが、暫くしてから気づきました。「自分にはちょっと無理だ」「出来ないだろうなあ」と思ってる事でもやってみれば以外に簡単に出来てしまうんだ。出来ないのは自分が勝手に「出来ない」と思ってるからなんだ。と気づきました。何故か思いきり泣けてきました。声を上げて泣きました。自分の現実の姿が見えた事や、何か自分を変えるための突破口を見つけたような気がしたからです。今までの私は失敗するのが不安で何もしなかったんです。97年10月で魚屋を退職しました。以前から自分で商売をしたかった事もありました。自分の人生を思う存分生きてみたい事もありました。ベトナムに関わることを仕事にしたいとの思いもありました。いつかは踏ん切りをつけるときがあって今がそのときだとの思いもありました。I want to be free 。

 
《トウアン物語 21》独立苦闘編

97 年12 月。まだ会社を起こす準備段階だったんですが、またベトナムへ行きました。目的は生のマグロを空輸して日本に入れること、刺身用のイカなどを輸入する事でした。以前の魚屋でインドネシアからキハダマグロを輸入していたので、ノウハウは少し持っていました。既にベトナムからマグロは入ってきていたんですが、まだ細かく現地を歩けば何とかなるんではないかと思ってました。しかし、現実はどこもかしこも台湾人がしっかり押さえていてどうしようもありませんでした。台湾人が漁具から、船から、漁法まで握っていて、一見の日本人が「買います」と言っても、物は2級品、値段はそこそこなんですね。彼らは日本での相場なんかもしっかり掴んでるので当たり前といえば当たり前です。冷凍のイカもそうでした。遠くから見ると出来そうなんですけど、近くへ行って手に掴もうとするといろんな問題があったんです。「アりゃアりゃこりゃ駄目だ」と思いました。今まで小さいながらも会社の看板があったから商売が出来たのであって、「苅谷という個人ではナンにもできんがや。」って打ちのめされた感じでした

 
《トウアン物語 22》独立苦闘編

知り合いのある水産会社がインドネシアから魚釣りの餌の「ゴカイ」を輸入していました。話を聞いてみると日本のゴカイの90%は輸入品だそうです。ピーンと来ました。「ベトナムにはメコン河がある。しかも下流地域は”メコンデルタ”と呼ばれる湿地のような所。絶対ベトナムにもゴカイはいる。水産物を拡大解釈してゴカイを輸入しよう」思いついたらいてもたってもいられなくなって、ベトナムへ行き、ゴカイを探して、釣り餌問屋さんに指導してもらいながらリュックサックにサンプルウを入れて背負って帰ってきました。開けてみると「あれーー全部死んでる。なんでやーー」。しかしまだ諦めません、再トライしました。今度は保冷剤を入れて低温状態で、しかも採取場所から空港までの時間、フライト時間、日本着後の輸送時間まで計算してサンプルを送りました。結果は、残念ながら汽水域のゴカイを日本の海水に入れると塩分濃度の違いで死んでしまったのです。がっくり。またダメか。目の前真っ暗状態です。

 
《トウアン物語 23》独立苦闘編

さあーいよいよ困った事になりました。お金が全然無い!昼ご飯を食べに行くにも、ポケットの中には500円ぐらいしかない。車にガソリンすら入れられない。もう奈落の底に落ちる崖っぷちに立って、両腕をぐるぐる回してるような状態でした。自分があまりにも不甲斐なくて仕方なかった。死んだ親父の写真を眺めてたら申し訳無くて涙が出て止まりませんでした。・・・「ベトナム料理屋を始めよう」と、“いつ”はっきりと決心したのか自分でもよくわかりません。店を出すためにはあまりにも多くの問題があったからです。ただ今まで通りのベトナムと日本の貿易の道を進んでいくのか、「自分が食べておいしかったから」の1 点を信じてベトナムレストランを開業するのか決断せねばなりません。どっちの道も現状では真っ暗やみの中です。まず最初にしたのは「事業計画書作り」でした。どんな店にするのか、誰に売るのか、特徴はナンなのか、料理を通して本当の売り物はナンなのか。作っていくうちに段々明確になってきたし、このときの思いが今も店の方針になっています。

 
《トウアン物語 24》独立苦闘編

「ベトナム料理屋をやろうと思うんだけど」と知り合いに相談すると、10 人の内 9 人までが「絶対やめとけ。食べたことも見たこともない料理を誰が食べるんだ。」との意見でした。事業計画書も作り、色々なことが具体的になってくると私の中では「決意」がだんだん強くなってくるんですが、知り合いのこのような意見を聞くとその決意がグラグラっとしてきました。でも、「自分が食べておいしかったから」というこれだけを信じて腹を決めました。次の大きな問題は資金です。会社はあるものの全くと言っていいほど実績が無い。借り入れできる道は家の担保提供だけです。両親が苦労して買った家だということは子供ながらにも知っていたので、その家を「借り入れの担保にして欲しい」などとはとても言えませんでした。と言うよりも、言うのが恐かったし、申し訳無さ過ぎる気がしました。“もしうまく行かなかったらこの家が無くなると”と思うと形容しがたい恐さがありましたが、何がナンでも成功させるとの思いを更に強くして国民金融公庫から融資を受ける事が出来ました。                                                                   次回最終回

 
《トウアン物語  25》独立苦闘編

なんせ当時は時間がいっぱいあったので、何件も足で歩いて物件を探して決めました。内装工事も材料運びなどなんでも手伝って全てに関わりました。だから出来た店が「わが子」のように感じてむっちゃ可愛かったです。そして 1999 年 1 月にオープンしました。 「ベトナム料理は流行りそうだから」とか、「儲かりそうだから」とかで始めたのではなくて、「これしかなかった」から始めたのです。

「ほおー。なんでベトナム料理屋を始めたんですか?」と聞かれたら本当はこれまでのことを全部話したいのですが、全部話すと 20~30 分時間が必要なので、いつもは超短縮版でお話しています。

以上で「トウアン物語」はおしまいです。        カームオン!(ありがとうございます)